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【特集】旅立ちを前に…木村慎太郎インタビュー(1)

3月も半ばを過ぎ、桜のつぼみが色づき始めた。季節は春、卒業の季節である。新たな門出を目前に控え、競走部・短距離ブロックを名実ともにけん引してきた木村慎太郎(スポ)に、早大での4年間を語っていただいた。なかなか結果が出ず、もどかしい想いをした1年時から、世界を経験した4年時まで。47分間にも及ぶ取材には、この上なく尊い、木村の大学陸上生活が詰まっていた。
早大入学 「環境の変化に弱かった」
――まずは早大入学の理由を改めて教えてください
インターハイで優勝を目指してやっていたのですけど勝てなくて2番だったんですけど。大体の人は色んなところから勧誘が来るんですけど、その時に色々お話を聞いて磯監督(繁雄=昭58教卒)と話して、「来て下さい」というのではなくて、「おまえはこれから学生スポーツを盛り上げていくために何をしていかなければいけないかは大学で考えなきゃいけないんだ。その中でワセダに来るのだったらこれからみていこう」というのを言われて。正直その時は世界とかそういうものを考えたことがなくて、ただ陸上をやっていた自分からのステッフアップができると考えて決めました。
――磯監督が決め手だった
やっぱり強烈なインパクトだったので、監督が。それが一番だったかな。
――入学してみて環境はいかがでしたか
良くも悪くも自分次第。部に沿った考え方というのは誰もが持っていると思うんですけど、その中で自分の色をどうやって出していくのかというのを、高校の延長と考えるのはすごく難しいというのがあって、最初のうちは苦労したんですけど。走る時の練習の考え方にしても、ウェイトトレーニングも大学に来て初めてやったりしたので、最初はわけもわからずやったんですけど、それも少しずつわかってくるように。自分の「こうしたい」というのがぼんやりと見えてきた頃に、ちょっとずつ記録が伸びてきたので自分をどうやって作っていったかというのが一番大きかったと思います。
――高校時代との環境の変化は大きかった
180度違いましたね。高校生の時は身体の成長と共にやれば強くなるみたいなところがあるので。で、大学生になると基礎体力というのはそこまで上がらないと思うので、そこから技術的な部分で、精神力とかその辺を考えながら色々教えてもらったりしてここまできたという感じですね。
――最初は世界を目指すなどの意識は強くなかった
どちらかというと(世界への意識は)ぼんやりしていた。1年生の時に世界ジュニアがあったんですけど、その選考でもれてしまって「自分何やってるんだろうな」と感じて。「出たいな」という気持ちはあったんですけど、ただそれだけだったので、「出てどうしたいか」というのを考えたことがなかったんですね。
――それを考えるようになったきっかけは
大学3年生の時に同じ学年の人が全カレ(日本学生対校選手権)で何個も優勝したりとか、その中で僕は全然ダメだったので。その次の年にはユニバーシアードもあるし世界陸上もあるというので、皆世界を狙える位置にいるというのを感じたのが大きかったですね。
――その中にはご自身もいた
自分がその中からもれたくない。もっとその中にいたいし、その上にいきたいというのは大学3年の終わりから感じつつやっていました。
――形になったのが4年生の日本選手権
あれは完全に条件に恵まれた部分が大きかったです。正直(日本代表に)決まって浮かれたというか本当に一番最低限の目標は日本代表になりたいというのだったんですけど、「じゃあ日本代表になってどうしたいか」というところまで考えがいってなくて、雰囲気に呑まれて失敗しちゃいました。
――いまは時間が経ちその先を考えるようになりましたか
それを考えて東アジア(競技大会)に臨んだのですけど、12月の難しい時期もあって、勝ちたかったんですけどそこで勝てたら失敗を活かせられたのかなという感じでした。
――ではまだこれから活かすと
大学4年間で出しきれたというとそういうわけではないので。
――1年生の時から4継メンバーに入っていましたが、1年時の日本選手権リレーの10連覇はよく覚えていますか
覚えていますね。すごい印象に残っています。やっぱりまだ1年生だったので重みというのはあまりわからなかったんですけど、一緒に練習してる4年生・5年生と木原(博=スポ)と楊井さん(佑輝緒=平21スポ卒)がいて、上の人たちの感じるものは少なからず抱けて、集中して出来たんじゃないかと思います。
――翌年の同レースでは筑波大に敗れて連覇が途絶えました
あれもすごく覚えています。悔しかったですね。
――4継メンバーは1年時から常連でしたが個人の記録はいかがでしたか
入ってきたときは4番手5番手くらいで調子もそんなに良くはなかったので。環境の変化に弱かったです。
――同期の木原選手は順調なスタートをきっていました
「なんでこんなに自分が走れないんだろう」とか、周りの人が順調に(環境の変化に)慣れていったりしていたので焦っていたとうか…。ただ焦っているけど何をしていいかわからないというもどかしさというかずっともやもやしたものがありました。
――もやもやが晴れるきっかけは
大学2年生の(日本学生)個人選手権。そこでようやく(自己)ベストを出せたのが。その時が一番良かったかな。きっかけになったというか。そこから個人選手権のあとの国体でまた10秒4代でまとめて走れたというのが、その年そこから徐々に、という感じですね。
上級生に 次第に芽生える『ワセダの誇り』
――そして上級生になり、江里口匡史選手(スポ3)が入学。走りを見ていかがでしたか
元々いい選手じゃないですか、高校の時から。1年目は自分もそうだったので慣れることが大事だから、と思っていたんですけど、そういうのも全く意に介さずやっていたので凄いなというのは思いましたね。
――もともと面識は
なかったですね。高校の時のインターハイとか国体で一緒に走ってたというのはあるんですけど。合宿で一緒になったりとかはなかったので実質、大学に入って初めて喋ったという感じですね
――2年生の1年間は個人の記録は伸びましたが、逆に4継では日本選手権リレーで連覇が途絶えたりと、4継は結果が出ませんでした
4年間で思ったんですけど、やっぱりリレーってタイミングが大事だなと。4人揃わないとだめだし、揃っても環境や条件、気温であったりとかがなかなか合わないなと思いました。逆に大学3年の日本選手権リレーで38秒台で走れたのでそのままほとんどメンバーも楊井さんが抜けたんですけど、下にも強い子がいたのでことしはいけるかなと感じたんですけどやっぱりどこもタイミングが合わなくて難しいなと思いましたね。
――4継はワセダのお家芸ということで伝統の重みは感じましたか
そうですね。でもやっぱり大学2年生のときにはそんなに…。というか、それにつぶされちゃった部分があって、それを受け止める器がなかったんですけど。たぶん僕らの代がしっかり理解して、受け止めて走り出したというのが大学3年のときの関東インカレ(関東学生対校選手権)で4年ぶりに優勝したところからですかね。「うち(ワセダ)は強いんだぞ」というのは出せていけたんじゃないかなと思います。
――3年生の全カレの逆転優勝がとても印象的でした
僕は逆の意味ですごく印象に残ってます。勝ったは勝ったんですけど、僕のバトンが届かなくて、それで相手に離されちゃったんですけど、あとの3人が頑張ってくれて本当にありがとう、という感じです。
――優勝が決まった瞬間、木原選手と抱き合ったところとか…
泣きましたね、勝ったのに泣いた。
――勝ったけど悔しかった
記録も狙っていたので。直前にケガしていたというのもあって…自分の弱さですけど。その時は「本当にこのチーム強いな」と思いました。
――ワセダの強さという自覚が強まった年ですか
その時木原に「やっぱりお前がいないとだめだよ」と言われていたんですけど、そう言われて「俺が走らないとだめだな」と思って走った結果ああいう風(バトンで詰まる)になったので本当に申し訳ないと思いました。
――それがあったから日本選手権リレーは連覇が途絶えた翌年ということで…
そうですね、そこが大事だと思いました。
――3年生になって4継でも学生記録を意識するようになった
そうですね、なりましたね。達成できればよかったんですけど。まぁ下の子も強いのでことしもまだまだチャンスはあると思います。
――4×200メートルリレーで日本記録を出したのもそのメンバーでしたね
日吉の競技場が改修になって新しくなって、コンディションも結構良かったですね。
――次々に記録を出していた3年生は飛躍の年でしたか
飛躍へのきっかけになった年でした。
――3年生の時は条件が揃っていた
比較的に揃っていた感じはありますね。
――そして最終学年。短距離主将になられましたが経緯は
僕らの代というのはブロックに一人か二人まんべんなくいたので、「やるならどちらかでしょ」というのと、誰がやってもその学年で部を引っ張っていくというのに変わりはないから極論誰がやっても一緒でした。同じ意思でやっているのでそれが誰が引っ張るかはちょっとした差しかないので、任されたから頑張るかと思ってやりました。
――特に心境の変化は
上の立場になって口うるさく急になるというのは僕は駄目かなと思っていて、3年間やってきたままでいこうと思いました。
――それが自分なりのキャプテンシー
背中で語るじゃないですけど。少しは言ったりはしていたんですけど、そこまで「ああしなさい、こうしなさい」とかはもう大学生なんでわかってくれるだろうなという感じで。
――短距離ブロックの空気はいかがでしたか
良かったですね。盛り上がったりもしますし、つらい時は自然と「頑張れ」というそういう励ましあいなんかもありました。本音の心の底から言えていた気がします。「言っとかなきゃ」とかそういうのは感じなかったですね。言いたいことは言っていました。

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