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 陸上競技特集



 【特集】最速王、次なるステージへ――江里口匡史インタビュー

 男子100メートルにおいて日本選手権連覇、日本学生対校選手権(全カレ)で77年ぶり4連覇、さらに世界選手権(陸上、以下、世界陸上)の日本代表を射止めるなど、4年間で輝かしい実績を残してきた江里口匡史(スポ4=熊本・鹿本)。学生の舞台を飛び越え、日本短距離界のエース格にまで成長したこの4年間は江里口にとってどのようなものだったのだろうか。そしてこれからも続ける陸上競技への思いとは。
※この取材は2月25日に行ったものです


「1年間、精神的につらかった」
(大1、2年シーズン)


江里口 ――4年間を振り返っていただく前に、まずワセダに進学を決めたきっかけは
 僕は九州出身なんで、関東の大学にも高校時代から興味はあったんですけど、インターハイの3年目がケガでちょっと結果が出なかったので、それで関東に行ってもしょうがないのかなみたいに色々と悩んでいたところで、今の礒監督(繁雄=昭58教卒)に「ワセダで陸上をしないか」って声をかけていただいて、そこで初めて関東でというよりはワセダでやりたいなと思いました。それがきっかけでワセダに入れてもらいました。

――それ以前は九州の大学に進む選択肢もあった
 そうですね。やっぱり地元が好きだったので、九州でやるのもありだろうなーというのもあったんですけど、関東に出たいという思いと九州でやりたいという思いがあって迷っていて。その時に本当にタイミング良く声をかけてもらって決めました。

――大学に入学する前に目標としていたことは
 やっぱり地元を出て陸上競技で大学に入るというところがすごく大きかったので、結果を出さなきゃいけないなとは思っていましたし、学生のうちに日本代表にはなりたいな、と。まだ高校生のときは本当にざっくりとした考えでしかなかったんですけど、やっぱり地元を出て本気で陸上を関東でやるからには日本代表にはなりたいと思っていました。

――では高校の段階から世界の舞台に対する意識は持っていた
 そうですね。あの頃は世界で戦うというよりは、自分が日本代表になって走ってみたいなという思いの方が大きかったので。今みたいにどうやって(世界の一流選手と)戦っていくか、どうやって競争していくかっていうことはあまり考えられていなかったですし。それでもあこがれというものは強かったのかなと思っています。

――地元を離れてみて、入学当初いかがでしたか
 そうですね…まあ高校の最後の方もよく合宿で1週間沖縄行って1週間家に帰って、また1週間合宿行ってということもありましたし、あんまり高校生の最後の方は実家にいて、ということも少なかったので、実家を出て陸上をやるということに対しては自分で思ったほど抵抗はなかったです。自分でも(環境の変化に)敏感になっていたつもりではあったんですけど、始めてみると意外とすんなりとできました。周りの先輩たちが良い人が多かったので。

――入学したての時期から、早くも江里口選手の活躍は光っていました
 大学生の試合では比較的に良い結果も1年目から出すことができていました。それも5月、6月と大学に入ってすぐの状態であの結果が出せたことは自分でもすごい自信になってうれしかったですし、関東学生対校選手権(関カレ)、全カレ、そのあとすぐ日本選手権もあったんですけど日本選手権も100メートルで5番に入って、自分でも試合をこなすうちに結果もそれなりについてきて。(結果について)あんまりあの時は深く考えていなかったなというか、まあ良い調子でいってるなという感覚はあったんですけど、1年目の夏にケガをしてしまって、それからが中々思うようにいかなかった時期が長かったなと思います。

――1年生の時に負ったケガとは
 右足の舟状骨(しゅうじょうこつ)という足の甲の骨なんですけど、その骨を疲労骨折してしまって。それが8月のユニバーシアードの時にやってしまったのでそれでドクターに足を診てもらって、次のシーズンでちゃんと走るためにはもう秋シーズンは休養に充てるしかないと言われて。1年生の秋は全く試合に出てないんですよ。走りだしたのは1月くらいで、4カ月くらい全く走らずにいたその時期はすごいつらかった。春先が良かっただけに、秋に走れなかったことはすごいショックでしたね。

――ケガを負って、当時の練習はトレーニング系のみだった
 そうですね。要は筋トレっていう練習がほとんどでした。最初の夏はケガをしてすぐは身が入らない時期もありました。

――4年間で1番大きなケガだった
 それが1番大きかったんじゃないかなと思います。

――復調したのは
 2年生の春シーズンに入るときに練習もできていたので、徐々にいい感じに練習できてきたなと思っていたら今度は左脚の恥骨、脚の付け根なんですけどそこが痛くなってしまって。結局関東インカレは準決勝で落ちて、日本選手権もなんとか出られたのですがギリギリ決勝に残るくらいだったので、北京五輪の選考にもまったく関われなかったです。1年生の8月にケガをしてから丸1年まともに試合で走れてなかったので、その1年間は精神的につらかったですね。

――走りたかった
 そうですね…やっぱり走りたかったですし、でも走ったとしても自分の走りじゃないということがほとんどだったので、そこがすごいもどかしくて。じれったい時期もありました。

――その中で支えになったものは
 やっぱりそれは自分の周りにいてくれる人たちだったと思います。自分がケガをして練習に身が入らない時期に1人で練習していても絶対に身が入らないんですけど、そういうのを意図的になのか自然になのかわからないんですけど「一緒にこういう補強やろうぜ」とか誘ってくれる人も結構いましたし、そういう風に話を聞いてくれる人も多かったです。本当に人に恵まれたなというところはそこで感じました。


「世界と戦いたいというのが明確に意識づいた」
(大3、4年シーズン)


――ケガもあったわけですが、世界大会出場を具体目標として視野に入れたのはいつでしたか
 北京五輪ももちろん目標にはしていたんですけど、春先にすぐケガをしてしまって正直自分の脚の状態を考えれば代表に入れるところにはいないだろうなというのは薄々感じてはいて、結果としてやっぱりだめで。北京五輪がだめだったあとですかね。自分の中で日本代表に対するこだわりというか思いが変わったなと思います。ただ言葉だけで目標にしていたのかなというところがあって、本気で自分が目指してなかったのかなとその時は思いました。やっぱりその程度の気持ちでは代表になれないのは自分で再確認できたので、本当に五輪に出られなかったのが逆にバネになって1年間ベルリンの世界陸上に向けての練習意欲につながったなと思います。

――3年生の5月、関東インカレの100メートルは2位でしたが、6月の日本選手権は自己記録を大幅に更新(10秒07=日本歴代4位)しての優勝。短期間での飛躍の要因は
 あの時は日本選手権は6月の下旬ごろだったと思うんですけど、その2カ月前の織田記念というグランプリで追い風参考ではありますが10秒20で走っていたので、日本選手権でも追い風が吹けば10秒1から2くらいで走れる感覚はありました。それが国内の1番大きい日本選手権という試合に重なったことと競技場の条件が良かったこと、あと自分の体調もそれに対してピークを合わせたということが1番タイムが上がった要因だとは思います。条件が良いものが重なっていって、記録としては一気に伸びたなとは思うんですけど、実際の実力はタイムほどではないというか…正直2年目までの方がそういう条件に恵まれなくてタイムが中々出せていなかったです。10秒2が出せるだろうなと思いながらも出せていなかったので、結果として10秒3から10秒1、そして10秒0まで(3年生で)一気にいっちゃったんですけど。でも実力としては徐々に伸びていったんじゃないかなと思っています。

――日本選手権のインタビューでは、「10秒07は出ちゃった感じ」とおっしゃっていました
 そうですね。10秒0台はあのときは全くイメージしていなかったです(笑)。10秒21という世界陸上参加のA標準記録を切ることをひたすら考えて、それを切ることと日本選手権の上位に入ること。じゃないと代表には選ばれないとは思っていました。

――10秒07の自己ベストは、高速トラックとも言われる広島広域公園陸上競技場の走りやすさが大きかった
 うーん、それもありますし、もちろん風もありますし。あとは会場の雰囲気が一気に良くなったのが大きいです。100メートル予選の第1組目が塚原さん(直貴=富士通)だったんですよ。予選の1組目から10秒09を出して、あの会場が一気に盛り上がった。その後は自己新を出す選手が何人もいましたし、やっぱりそういう好記録が出る雰囲気と、好記録が出やすい競技場と、風も吹いて条件が良かったというので、正直その中で僕も記録を出させてもらったというところが大きいと思うので、あの時自己ベストが出せたのは、まだ塚原さんのおかげだったんじゃないかなとは思っています。

――好タイムを出せる雰囲気をつくってくれた
 そうですね。やっぱり記録が出る雰囲気、みんなそれに乗っかっていって良い記録をどんどん出していったという感じなので。やっぱりあれを予選一発目から出した塚原さんはすごいと思います。

――会場の雰囲気に記録が左右されることもあるのですか
 ありますね、やっぱり。あとはもう会場の雰囲気と自分の走る気持ちですかね。不安というよりは、どっちかって言うと記録が出ることをわかった状態で「早く走りたいな」と思って走るときは記録も良いです。あの時は本当にハイな気持ちというか状態になっていたと思います。

――では予選から、気負いというよりも余裕があった
 他の選手がタイムを出していても、それ以上のタイムで走ればいいぐらいにしかあの時は思わなかったですし、まあ出るだろうなという確信も自分の中にあったので、1本走って本当にあれはホッとしたなというのがありましたね。

――自己記録を出した日本選手権を経て、それからはコンスタントに良い記録を出せていた
 そうですね。日本選手権のすぐあとのユニバーシアードでも10秒28とかでも走りましたし、向かい風で10秒3台の前半で走りましたし。やっぱり日本選手権は風の状態や雰囲気が良くて10秒1とか0とか出せたんですけど、自分の中では風がない状態で10秒2台が出せるところまでやっときたなって感じました。あとは風がなくても10秒1台を出せるように自分の状態をアップすれば本気で世界と戦えるだろうなって礒先生とは話をしてて、そういう目標を持ってやっていましたね。それはもう3年目だけでなくて4年目の目標でもあったんですけど、実際には大学4年間ではそれができなかったなと思うところの方が大きいです。日本選手権以降は色んな国際試合にも出場する機会があって、良いなと思う走りもあれば失敗することもあったり、ケガで好記録が出せないことをわかっていながら出場しなければならない場合もあったり。それでも、本当に色々な経験をできたことがまず3年目の日本選手権のあと1番大きかったことですかね。

――江里口選手は特に自己分析に優れていらっしゃると思いますがご自身としていかがですか
 自己分析というか、10秒の間に何をできるかっていうのは実際には試合の時はあんまり意識してできないので、やっぱり普段の練習や練習じゃなくて普段の生活の中から陸上というものが自然と自分の頭の中にあるなと思いますし、そういうのを考えるのも結構好きなんです。ただ、自分より速い人の走りや9秒台の走りを映像で見るのと生で見るのというのは違いました。それを実感できたのが世界陸上だった。あれは本当に、あそこに行けたからこそ勉強になったことも多かったですし、何よりそこで自分の実力を発揮できないのが悔しかった。あの時はまだ日本代表になることが目標でしたが、それから(世界陸上をきっかけに)本当に世界と戦いたいなというのが明確に自分の中に意識づいたなと思います。

――やはり世界陸上がご自身の4年間で1番の刺激
 そうですね、刺激にもなりましたしやっぱりきっかけにもなりましたね。

――ウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)の走りは衝撃でした
 やっぱり速いですね。まだ自分は世界陸上が自分の試合ではなくて、そういう人たちの出る試合でやっと自分も出れたなという感じでちょっと蚊帳の外というか、距離を置いたくらいでしか参加できなかったのが悔しかったです。

――これからは世界トップクラスのスプリンターを目指す
 そうですね。その試合に俺もいるんだ、ぐらいの記録と結果を出して、ぐいぐい入り込んでいければ、見る人も楽しく見れるんじゃないかと。そこは頑張りたいところですね。

――4×100メートルリレーでは1走として出場し、4位に食い込めましたが、やはり個人種目が振るわなかったことが悔しい
 あの時は個人種目はなんというか…緊張ももちろんしてましたし、こう…良くわからないまま終わっちゃったなという感じでした。それで100メートルも終わってふと考えたらやっぱり自分らしく走れてなかったと思って。100メートル終わってから間が5日ぐらいリレーまであったんですけど、そこで何とか試合で走れるぐらい立て直せたのでリレーはなんとかなりましたね。

――日本のリレーチームをけん引したのは塚原選手、高平慎士選手(富士通)でした。2人の存在とは
 あの時はあの人たちの存在がすごい大きかったと思います。やっぱり自分もそういう代表として、短距離を引っ張る選手にならなきゃいけないと思いましたし、本当にあの試合で得たことというのは多かったです。

――学生生活最後の国際大会であったアジア大会では納得のいく走りができなかった
 あれは確かアジア大会の3週間前くらいかな…左足がちょっと痛くなって。左足のアキレス腱の付け根くらいのところなんですけど骨と腱が炎症を起こして、一時期は歩いていても途中で痛みが出て窮屈になって苦しくなるようなこともあったので、もちろん万全ではないんですけど代表として行って、周りもサポートもしてくれていたので、やっぱりやるべきことはやらないといけないと臨みはしたんですけど結果は全然自分の求めていたものとは程遠かったので、そこは自分でも色々と反省もしながら。代表になることも重要ですが、なったあともすごい重要で、代表になるってことはもちろん国内で力がないとなれませんし、なった後も代表になった試合があるはずなのでその試合に向けての調整ができていなければ結局は代表になるだけで意味がないので。代表になるからにはその試合に出て、結果を出すということを求められている存在なので、それを果たせなかった自分がすごい情けなくもありました。それが個人だけではなくて僕の場合リレーもあったので。そこは本当に申し訳ないと思っていました。

――現在、その炎症は
 今はもう大丈夫です。大分練習内容も上がってきて、スパイクも履けるぐらいにはなったので。3月からの(大阪ガスの)沖縄合宿では、またシーズンに向けてやれそうだなという感触があります。


「支えられているのだけは忘れちゃいけない」


江里口 ――4年間を振り返って、ワセダに入って良かったと思う点は
 陸上においても大学においても、人とのつながりがすごい増えたなと自分ですごい実感できたことです。それはワセダに来て、大学で学びながら陸上しながら知り合った人たちだと思うので。やっぱりそこが一番なのかなと思います。人とつながりを持てたことが。

――心残りは
 そうですねー…勉強もうちょっとやっとけば良かったなー…(笑)。まあでもやり残したといえば…やっぱり陸上になっちゃいますかね。やり残したというよりは、結果を最後に出したかったなと。4年目に。早稲田大学という名前がつくのはこの4年間だけなので、その4年間のうちで世界陸上出て、それなりの記録を出したことは良かったんですけど、やっぱりアジア大会では金メダル獲りたかったですし…それ以前に、学生記録や日本記録というもっと大きな記録もつくりたかったなと思うので。リレーも学生記録を4年間狙ってきましたが結局4年間出せなかったので。そういった学生としてできること、記録や結果を、欲を言えばもっと出したかったなと。それがやり残したことですかね。あとは全カレの総合優勝ですかね。みんな頑張りがあったんですけど、総合2番だったので。そこまでいったら優勝したいなと思ったので。まあそれは僕だけじゃなくて後輩たちもみんな思ってくれていることだと思うので、託して、これからはサポートする側に。

――礒監督と4年間を共にして
 陸上に関してももちろん、海外の試合にも一緒に行ってもらいましたし、競技力も高校の時よりさらに伸ばさせてもらえました。陸上に関してもすごく多いんですけどそれ以外、オフの時でも色んな面でお世話になって。そういう意味では競技でも競技外でもすごくお世話になった方なので、どう感謝すればいいかな…と。漠然とし過ぎてて何と言ったらいいかという状態なんですけれども(笑)、本当に感謝していますね。

――就職先を大阪ガスに決めたのも、礒監督のアドバイスなどを受けて
 そうですね、助言というか相談ですかね。最終的には進路は自分で決めるもんだって言われていたんで、礒先生だけではなくワセダのOB、OGとして陸上競技を続けている先輩方にも色々相談しましたし、あとはやっぱり僕が高校時代からお世話になっている先生方にも相談もしたりして、最終的には1番陸上のためになるという選択肢だと思って自分で選んだ選択肢です。

――多数の団体からオファーがあったのでは
 いやー…そうでもないですよ(笑)。実際は短距離というのは本当にもらい手が少ないというか、進路先がそんなに多くはないので。でもその中で陸上に集中できる環境をつくってくれる企業があったので、それは本当にありがたいことだと思って最終的には選ばせてもらいました。

――社会人になっても陸上を続けるということについての決意をお願いします
 何よりやっぱり自分が陸上をするっていう気持ちというか、プロではないんですけど一種のプロのような、これでやっていくんだという思いが今以上に陸上にないとだめなんだろうなと。社会人になって陸上をする環境をもらえるんですけど、ただ走って会社から給料をもらってというそんな甘い考えではいけないと思うので、やっぱり陸上をするからにはそれなりの覚悟を持って、そういう思いというか覚悟というか気持ちを持って陸上に取り組むことが自分には1番必要になってくるのかな、と思います。それを踏まえたうえであとは記録を出したり国際試合の経験を積んで、最終的にはやっぱり五輪で結果を出したいです。

――ちなみに五輪と世界陸上の違いとは
 そうですね…やっぱり五輪は、世界陸上に出なくても五輪には出てくる選手というのもいるんですよ。特にアメリカなどはアメフトとかと並行して陸上やってる人もいて、9秒台で走りながらアメフトやってる人がいて、そういう人は五輪だけにしか出てこないんですよ。だからやっぱりレベルが高いのは五輪なんですよね。まあ世界大会で見れば(五輪と世界陸上は)同じ世界大会なんですけど、レベルが高いのは五輪なので、そこでどんな走りができるのか、どんな結果を出せるのかというのは、自分のやりたいことの1つですかね。

――ご自身の強みとは
 走りがあんまりぶれないというか、ケガをしたりすれば記録はもちろん上下しますけど、ケガをしない限り、普通に練習をしている限りはタイムがそんなに大幅に崩れることはないです。走りが安定しているからなのか、自分で自分のことをわかっているからこそなのか。なので環境が変わったとしてもそこは図々しくいけるんじゃないかと(笑)。それに試合に対してというか、陸上に対して大学4年間で大分図々しくなったかなと思います。まあ普段から図々しくしててもしょうもないですけど、図々しさを出しても良い場面で出せるようになったっていうのは、選手としての成長もあるのかなとは思えますかね。

――江里口選手が思い描く、強い選手像について教えて下さい
 自分の狙った試合で自己ベストを出せることは強い選手の証だと思います。それが世界のトップはできているからこそ世界のトップなんだろうなと思いますし、やっぱり自分もそれを国際試合でできるようにならないと強い選手にはなれないのかなと。タイムを持っているだけの速い選手ではだめだと思いますし、タイムを持ったうえで戦える強い選手にならなければ結果も出ない。自分がこれだって決めた試合で自分のベストを出せるような、そういう選手になれると本当に一流なんだろうなと思います。

――世界の舞台で勝負するため、これからは9秒台も視野に
 そうですね。やっぱり世界と戦っていくためには必要なステータスの1つだと思うので。

――社会人になるにあたって
 今までは大学の名前だったのがこれからは会社の名前になるんですけど、やっぱり自分が試合に出れば今はワセダの選手として見られるわけですし、これからはその会社の人間として見られるわけなんで、自分が何かしらの世の中から見て良くないことをすればそれは会社の悪いイメージにももちろんつながりますし、そういう会社のいち人間として陸上をやるっていうことは忘れちゃいけないことかなと思います。ただ、自分が1人で陸上をやっている、とだけは思いたくないですね。色んな人や色んな環境に支えられているのだけは忘れちゃいけないと思うんで。そういうのは、まあ自分でも感じながら、あとはちゃんと口にして、自分が感じてる感謝の気持ちっていうのをちゃんと伝えていこうかなと思います。そういうものは大切にしていきたいですね、これからも。

――競走部の後輩にエールをお願いします
 陸上できる期間というのは、僕もなんですけど、一生自分の記録向上を目指してやっていけるわけではないので、陸上をやるからにはそれなりの覚悟を持って、今やってることに満足せずにもっとやれるんだ、もっと本気になって陸上をできるんだと思って陸上に取り組んでほしいなと。そうすれば陸上競技ももっと色んな視点で見れて、楽しいなと思えてくると思うので。強くなるためにはもちろん記録も必要ですけど、それだけが本当に全てではないので、自分なりの陸上競技というのをもっと突き詰めて、本気になってもらいたいと思います。

――最後に、ファンの皆さんに一言お願いします
 大学生じゃなくてこれからは社会人になるんですけど、基本的なスタンスは変わらずにやっていきたいなと思うので、謙虚な気持ちとあとは周りに対する感謝の気持ちは持って、それでも試合の中では堂々と、自分の可能性を突き詰めて競技していきたいです。これからも応援していただければありがたいなと思います。

――ありがとうございました!


(取材・編集 杉山幸美) 


江里口 ◆江里口匡史(えりぐち・まさし)
 1988年(昭63)12月17日生まれのB型。170センチ、58キロ。熊本・鹿本高出身。スポーツ科学部スポーツ文化学科4年。自己記録:100メートル10秒07、200メートル20秒88。卒業後に入社が決まっている大阪ガスでは、基本的には朝9時から12時までお仕事をするとのこと。競技との両立、頑張ってください!







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